いきなりですが、「考えるのが嫌な人」というのが居るのは、人間の本能的な問題なのか、教育のせいなのか、社会のせいなのか、カナダのせい※なのか、……というと、大脳生理学的には人間の脳の持つ本能的な反応らしい。すなわち、人間の学名である「ホモ・サピエンス・サピエンス(賢明なる人の意※)」というのはあんまり正しくない学名でありますな。
歴史的にも「自分たちで国のことを考えるのがイヤ。もちろん王様も同じ」であったが故に、そういう人たちに代わってお国のことを考える「議会制政治」というのが生まれたくらいであり、いわゆる"ゆとり"や"団塊"がモノを考えない世代……というのは適当ではないのです。もちろん、この世代が他の世代に比べて思考力が著しく低いのは社会心理学的にも有意な統計が取られているのだけれども、それは第2以降の要因である「教育」や「世相」が原因でしょう。
さて、なんでこんな話になったかというと、マンガ家さんや編集さんと会う度に話題になる「最近の読者は"解釈"が必要になる物語やネタ、ギャグを極端に嫌う人が多い」というお話から。ただ、アタシ的にはそれはまったくの逆で、作家や編集が「読者に上手く、かつ心地よく"解釈"の快楽を与えられない」だけであり、元々「解釈が必要な物語・マンガ・映画」というのは、結論がきちんと出るかどうかはさておいて、「それを解釈するための道しるべ」のようなモノが用意されていて、結構親切に出来ているもんだということを忘れてはいないか? と思うのです。
いろいろ物議を醸した『テレビ版:エヴァ』も、いまだに解釈が分かれる映画版『2001年宇宙の旅』※だって、理解できないように出来ているが「結局アレはなんだったのか?」と考えれば、それなりに答えに近いところにたどり着ける道標は用意されているわけですし。
そうやって先人が「考えるのがイヤな人」という人間的本能の裏をついて「考えさせる」あるいは「考えた気分にさせる」テクニックを駆使しているのだから「解釈が必要になる難しい話はダメ……」なんてことは無いんじゃないかと。
まあ、問題は「考えるのがイヤ」過ぎて「考えたフリ」をすることだけが上手くなり、あげくには自分で自分が「考えたフリをしてるだけの脳内情報コピペ状態」であるのが分からなくなちゃった人。こういう人に限ってBLOGとかで声が大きかったり、同じような状態に陥ってる人を集めてページビューを集めちゃってたりするからタチが悪いんですが、それはまた別の話。
もっとも、いろんな業界の人の話を聞くと、そういう人たちはやっぱりラウダー・マイノリティーであり、実効経済的影響力はあまりないのが現状なので、あんまり惑わされないようにしたいところ。
エンリコ・フェルミだったかオッペンハイマーだったか、原典が出てこないのでアタシの思い違いかもしれないんですが「考えるのが嫌なら学べばいい」とは、全く正しい考えですな。学ぶのも嫌なら? 攻殻機動隊SACのセリフを思い出して「この世」を「学ぶ」に変えてみると良いんじゃないですか? その後のセリフは原作版を同じく改変してみました。曰く、
「この世が嫌なら、自分を変えてみろ。それが出来ないなら孤独に暮らせ。それもダメなら……(銃を相手の頭に)」
「バイバイ、テロリスト。そんなにこの世が嫌なら、あの世から出てくるな」
……もちろんこの言葉は、受け手だけじゃなくて送り手(作家・編集)も心に刻んでおくべき。送り手も学ばなきゃなにも伝わらない。まあ、当然のことですよね。
というのを心に刻んでもの作りに励んだ人が過去にいなかったのか? というとそうでもなく、最近はネタ不足から来るリメイクに海外作品のリメイク、コミックのムリヤリな実写化に逃げるといったあんまり好ましくない方法で悪名高いハリウッドには、かなり早くから"考えるのが嫌な観客"を帰らせないための作劇論が存在しました。
俗に「30分の法則」とか「1/3の法則」と呼ばれる法則なのですが、
・主人公のキャラクターとその巻き込まれる事件を描くフェイズ
・主人公がその事件を解決しなくてはならなくなる動機のフェイズ
・主人公奮闘のフェイズ
……という3要素をだいたい上映時間を3で割って振りわけ、余った時間に「衝撃のラスト!」だとか「どんでん返し」を入れるわけですね。映画『インデペンデンス・デイ』なんかはその分かりやすい典型で、約150分の映画なのですが、
・宇宙人が来た! なんだろう!(50分)
・攻撃してきた! やられる一方!(50分)
・ロズウェルで回収した宇宙船で状況打開、逆襲へ!(50分)
みたいな時間配分になってます。ローランド・エメリッヒの映画は、歴史劇の『パトリオット』を除くと、結構この法則を忠実に守っていますね。他にも『デイ・アフター・トゥモロー』や『スター・ゲイト』なんかもこの時間配分で見てみると、綺麗に3フェイズが分かれているにもかかわらず、観客に分割を意識させない作りとなっており、なかなか勉強になります。『インデ〜』や『デイ・アフター〜』はブルーレイがかなり安くなってますので、ちょっと話作りに困ってるという方は、是非観てください。とくに映像特典。2回ぐらい連続で見ると飽きるのに、しばらく経つとまた見たくなる不思議なオーラもエメリッヒ映画の魅力ですが、何回か繰り返しで見ると、そのへんが学べてお得です。
じゃあ、そういう配分を「ヒラケンはどうしてやがるのか?」というお話しは、次回、エメリッヒ作品の例をもうちょっと詳しく解説しつつ、オープンにしていきたいと思います。
※映画版『サウスパーク』のネタ。子供がグレたのはカナダのお笑い芸人が原因だと騒ぎ立てる「政治活動が趣味」のユダヤ人のお母さんが提唱する。なおそのパートはミュージカル仕立てになっており、なんでも「カナダのせい!」と高らかに謳う"プロ市民"を皮肉たっぷりにからかったこの曲はアカデミー賞主題歌賞にノミネートされた。
※なんでも「賢い」という意味の「サピエンス」を2回並べることで「賢明なる」という意味になるらしい。よく「ホモ・サピエンス」と表記されることがあるが、ネアンデルタール人だって「ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス」であり、かの猿人は人類と遺伝子が異なっている断たれた種であることが分かってるので、この表記は「現人類」を表すのには適当ではない。
※『2001年宇宙の旅』は、映画こそ超不思議ちゃん映画であるが、原作は至って分かりやすい、超越的存在の手による人類の進化と、その過程の物語である。なお、キューブリックも原作の内容を支持しているとのことなので、正解はクラークの原作本。